伝説の大叔父

 特許庁に勤めていた頃、必ず不機嫌そうな爺様たちがいた。
IPCC(工業所有権協力センター)の面々である。
多くは民間企業の技術者か、元技術者で構成され「出向」という形で勤務している。


 IPCCでの仕事は、一言で言えば「自尊心の崩壊」であろう。
課長職や部長職を勤めた人間なら、耐え難い労働環境である。
なんせ、若い審査官補や審査官を相手に懸命に技術の説明をして、
あーでもないこーでもないと叩かれ続ける。
実際、IPCCの事務方に八つ当たりする人も多い。
それだけストレスが溜まる職場なのだ。


 そうした中、IPCCにいた大叔父は極めて稀な人であった。
この地獄に赴いたかと思えば、毎日嬉々として働いていた。

「いやー、楽しい楽しい。やっぱり人と話せる仕事が一番やな」

法事の席も、結婚式の席も、特許公報を離さず
土日は図書館通いをするほど熱心であった。
定年を過ぎても、雇用延長を毎年希望されることからも優秀なことが伺える。


 大叔父はサラリーマンにしては、実に「数奇」なキャリアを歩んできた。
旧帝大の物理部を卒業後、某大手の家電メーカーで研究開発職を勤めていたが
海外赴任命令を断ってから、一見すると坂を転がり落ちるような道を辿る。


 次の職場は、お客様センターである。いわゆる「クレーム処理」というやつだ。
毎日のように電話口から怒鳴り声が聴こえる中、大叔父はこれを“笑って”やってのけた。
周囲が「とうとう頭がおかしくなったのではないか」と心配された程に、だ。

「お客さんと直接話しができる。こんなええ機会をくれる職場はないで、ほんまに!」

技術畑出身であったこと、そして人と話すのが大好きだったことが“災い”して
大叔父はこの職場から離れようとはしなかった。


 そしてまた、次の職場に移った。営業部である。
40代後半を迎え、営業のエの字も知らない人を営業部に配属させる。
会社の意図は見え見えである。
ところが、この職場でも大叔父はうまくやってのけた。

「この製品は間違いなく売れる!これはチャンスや!」

理系出身+技術畑+クレーム処理能力+生れ持っての話好き。
この4つが見事に花開き、営業ノルマを難なく達成した。
そう、会社が表彰を何度も与えざるを得ない程に大叔父は暴れまくった。


 とうとう会社は手が付けられないと思ったか、IPCCの出向を命じたのはその後の話であった。


 我がFutaba家にして、歴代の傑作はいるものだが
大叔父がまさにそれであった。
左遷に左遷を続けても、転がり落ちながら笑える人間はそうそういないものだ。


仕事が増えてはクレームと苦情に頭を悩ませ、怒りを心に留めている私には
到底真似できそうにはない人間である。
大叔父をうらやましく思いつつ、私は日々を過ごすのみだ。