手話と言語

 先日、トヨタアシモが手話をしている姿をテレビで見ました。
 手話は、顔の表情に至るまで包含していることを考えると、まだまだ発展途上なのかもしれません。
 それは別として素晴らしい試みです。


 手話も 「言語」 の一つとする
 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/handle/10140/1891


 ピンカー博士の書籍で得た知識を辿りつつ読みました。
 休日の余暇を楽しむには最適な論文でした。
 個人的に、“卵”を表すパントマイムと手話との比較から、上肢と四肢の表現の相違、具象性の違いを指摘していた点は、興味深かったです。
 確かに、日常生活において顔の真ん前で卵は割りませんよね?


 著者が、言語学が最終的に自然科学に帰結してしまう危うさ、そして、音声言語、音声言語対応手話、及び手話といった多様な言語が失われる危うさを指摘している点。
 これも合点がいく懸念でした。
 手話は、我々が日常的に用いる言語とは異なる、また一つの言語なのです。
 ということは、文化も違うということになります。
 言語は文化の母体ですからね。


 しかしながら、どうも健常者である我々にはその点が理解できていない。
 というより、理解できないといった方が良いのかも知れません。
 人工内耳の特許動向を修士論文として仕上げた私からすれば、確かに一般社会は“ろう者の文化”に極めて無関心です。
 「耳が聴こえない?子どもの頃から人工内耳を装着すればいいじゃない」という意見が圧倒的に多いと思います。


 近年、『手話言語法』の制定に向けた立法を促す動きがありますが、その動機も理解できる気がしますね。
 ちなみに、個人的には手話言語法の制定に賛成せざるを得ません。