独立行政法人を考える

独立行政法人を就職先として外すにあたって、某公務員と3時間ほど話し合いました。そもそも独立行政法人を受けるにあたって、その存在意義を考えた事はありませんでした。
一体、なぜ独立行政法人があるのか。


独立行政法人のうち国立公文書館造幣局国立印刷局国立美術館といった公益性の極めて高いものを除外すると、その存在意義は主に2つあると考えられます。
一つは、官僚の出向先&天下り先。国会でも問題になっている点はここにあります。
重要ポストの一定数は官僚ないし元官僚が座る事になり、今後もその傾向は変わらないでしょう。しばしば「将来的には法人出身の職員がポストに就く割合は増える」と豪語しますが、法人出身の職員によりポストが占められるなら役人にとって利点があるとは思えません。


しかし、こんなことは大した存在理由ではない。


もう一つは、民間に金を流す上での“カモフラージュ役”。
これこそ本当の存在意義なのです。
例えば、ある企業に対して金を流すにしても



企業

と、直接金を渡せば問題になります。
「何故、血税を一企業に費やすのか」といった批判はもとより、「審査基準と透明性を確保せよ」といった要請も当然沸き起こります。仮に、それら基準を明確にしたならば、それは責任の所在や度合いを明確化する事に他ならない。そんな事をしてまで金を流すリスクは背負いたくないものです。
では、どうするかと言えば



独立行政法人

企業

こうすればどうでしょうか。
法人は国とは別組織です。それぞれの法人が基準を定め、透明性を確保し、事業や研究の外部委託等を公募すれば何の問題もありません。責任は国に及ばない。あとは、担当省庁から中間計画という名の“命令”に沿ってスムーズに予算に基づき実施する、つまりスムーズにうまーく“企業に金を流す”ことが独立行政法人の役割と言えるのです。この点で国も間接責任を負うリスクがありますが、なんせ“独立”なんです。いざとなれば「束縛はしましたけど、あとは自由なんですから」と言う事だって出来る。第一、基準・透明性・公募なんて聞こえはいいですけれども実際は出来レースに近い。
ともかく国が直接手を下せない分、スケープゴートとして金を流すのがその存在意義でしょう。
天下りより深刻な問題点はここなんですけどね。


確かに、こうした金の流れにより民間での研究者・技術者育成に適っているのは事実です。民間では採算が取れない長期スパンの研究でも成り立つのは、将来への投資といった観点から見て意義があるかもしれない。だとすれば、それは直接国がやったって構わない。しかし、それでは先ほどのリスクを背負わなければならない。そこで、独立行政法人という高価な中間マージンを払って金を流す必要があるというわけです。
いくら「我が独立行政法人△△は○○のために、ひいては国民生活を豊かにすることが存在意義です」なんと言ったところで、これが存在する最大の理由でしょう。


某(゚∀゚)「これを理解してでも働きたいってならいいけどね」
私(´Д`)「う〜ん、やっぱりええわ」
ここまで考えて受けるのを止めました。
どうみても働きがいを感じ得ないので。


ちなみに、今後職員として求められる人材はどんなものでしょうか。
強いて言えば「民間企業のように利益を意識した発言が出来る人(利益を生み出す人ではないので注意)」だと思います。「誰にでも分かりやすく説明が出来る人材が欲しい」「経営を意識したマネジメントを実現できる人材が欲しい」なんて言ってるのが良い例です。そもそもプレゼン能力も経営的関心が必要なのは、それに沿って国民へ話が出来なければ存在意義を問われるからです。言い訳できて法人が延命できれば御の字なのですから。