生の冒涜にして

『幽霊』や『お化け』を見ることができたなら死んでもいい。
『幽霊』や『お化け』がいるなら、あの世があるってことでしょう?
死ぬことなんて怖くなくないじゃありませんか。


ふと、死を考えることがあります。


真っ暗な夜の闇の中で、布団に入ってこう思うのです。
『死んだらどうなるのだろうか』と。
そんなこと分かる訳がないのですが、考えてしまいます。
死んだらどうなるのか。


あの世なんてありません。
死んだら無になるだけです。
無に。
私という存在がなくなるだけです。
そして、決して戻りはしない。
この地球が消え
この星輝く宇宙が消え
何も無い漆黒世界になって、それすら消えて
次の宇宙が生まれても
この私はそれを感じず、再び戻ることはない。
二度と。
永遠に何も無い。
何も。


『何で人間に生まれてきたんだ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だイヤダ・・・』
ここまで考えると大声で叫び、発狂しそうになる。
死が生理的恐怖となって襲う瞬間です。


ですが、一通り恐怖たる興奮が収まると再考を始めます。
終わりがあり、神なんていない。
でも、今は私があるではないか。
生きているのだ。
ならば、死ぬ分だけ今を一生懸命生きてやろう。
人間にあるのは2つ。
『生きること』
そして、死を逃れる鎮静剤として
『情』
一人ではないから、怖くないとするもの。
そんな2つだけしか与えられていないのだ、と。


先日、ここまで考え思ったのは
「守護霊が見える」だの
「占いではお前は不幸になる」だの
美輪明宏細木数子は、実に最低な連中なのだと悟ったことです。
本当に見えるならば
本当に占えるならば
それはそれで構わない。
しかし、それが嘘ならば。
それは生きることを軽々しく扱う行為。
それは一生懸命生きることへの冒涜。
どう考えても尊敬などできる人種ではないと思い至りました。


『死者を畏れ敬い、生者と供にす』
丁寧に生きよう。
なんだか仏教的な終り方ですが、これがしっくりきた最新の結論ですかね。


※画像はなし。
宗教に逃げたくなる瞬間は、こんな事考えてる時ですねw
私信はありません。