学友の死

人間が初めて『死』を認識するのは、いつのことか?
一般にそれは
『初めて偽りを述べたとき』
つまり
『他者を欺く為に、図らずも自身を認識してしまったとき』
に始まると言われています。


昨夜9時過ぎ、同期同科の学生が交通事故で亡くなりました。
前方不注意による停車中の自動車に対する追突。
本日の補講冒頭にH教授より、彼の訃報は全体に周知せしめられたことですが
それ以前、つまり本日早朝には一部の人々に知られる所となっていました。


彼とは直接の面識もなく、名前を聞いても声・顔も思い出せないのですが
T氏やM先生を初め、私と親しい学友が黙り込んでしまっているのを見るに
生前の交友関係、社交性、人徳が想像できます。
「マジ!おいおい、嘘だろ。昨日話したぜ、あいつと。」
「病気で死んだんならともかく、何も突然に・・・」
教室の前後では、そんな声が聞こえてきました。
とかく、下宿の人間にはショックが大きく
いわば『明日は我が身』を考え、無力感が漂っていたわけで。
葬式も告別式もなく、彼は両親と共に、部屋の家財一式を持って明日自宅へと帰るそうです。
赤の他人で、しかも面識もなかったのですが、嫌な気分になります。


『死は何も生み出さない。死んだらお終い』
『死は無価値・無意味である』
『生きることが全て』
それが現代哲学であり、現代人の思想であるのは事実ですが
私から言わせれば、それは極論であり短絡である事が否めません。
『死とは、何か』
その問いはどこにあるのか?
宗教にも、哲学にも頼らず
私が遺伝子工学を試みたのも、ここに一端があります。


『人間は2回死ぬと言われています。1度目は肉体的な死。そして2度目は、友人に忘れ去られたとき』
人の不幸に対して泣くことほど、嫌なことはありません。
しかし、それは記憶を紡ぐことで生きる人間の営みそのものでもあります。
不幸にして若く死んだ彼。そして、その死を悼む学友たち。
願わくば、死してなお、彼が友人の心に留まることを。
_| ̄|○謹んでご冥福をお祈り致します。


※画像はなしです。
私信もなしです。
教室の空気がこれほど暗くなったのは、入学始まって以来ありませんでした。