119年前の言葉に

あいまいな生活は、弱い生活であります。


内村鑑三「余は如何にして基督信徒となりし乎」より



 教科書に出てくる内村鑑三といえば『不敬事件』で有名ですが、こと自伝となると余り有名ではありません。
 明大の鈴木名誉教授が助教授時代に訳した「余は如何にして基督信徒となりし乎」は、今を生きる私においても感銘を受ける文章が多々見受けられます。


 119年前も今も、人生で悩むことは誰しも一緒であることを、この本は教えてくれます。
 そして、いつの時代も青年は悩み続けるものなのだと、勇気付けられたような気もします。


 あいまいな生活とは、一体何か。
 私の理解では「倫理なき生活」とでも云いましょうか。
 倫理といってもルールとかマナーといった具体的なものではなく、ポリシーや確信のようなものです。
 悩み続けてもなお、真理とは何かを問い続けた内村は、自らの信じるところ、知りえないことを信じることがキリスト教的な寛容であると結論付け、それ以後は無教会主義という考えを実践していきます。


 若いころに得たポリシーや確信は、時として世の中を理不尽に見せるものです。
 それゆえ、その理不尽に対して真っ向から対立するか、迎合するかといった二者択一の選択を選びがちですが、実はどちらも「あいまいな生活」であることに気が付きます。
 悩み、修正し、また悩み、また修正しを繰り返し、限りある理性で出尽くした結論を基に生活をしていくこと。
 仮に「強い生活」なるものがあるとするならば、なかなかできることではありません。


 しかし、これを実践し得ることに私は希望を覚えます。
 うーん、出来るかしら?