中間報告執筆

(´Д`)執筆というよりコピペ?w
今日は、大学院での中間報告書提出日でした。色々戯言を書いているうちに、自分が何も研究していない事に気が付きました。本来調べなければならない関係諸法とか、論拠となる資料とか。それ以上に、自分の捕らえている技術がIPC第8版のどういった分類に引っかかるのかすらも把握していませんでした。これは非常にマズかったです。「お前、やる気あんのか?」ってレベルです。


理系なら、こうはいかないでしょうね。データがないと何も始まりません。あるシグナル伝達経路の因子Aの働きを同定したいのなら、抗体やら酵素やら組み替えDNAやらを細胞に加えて、エレポったりして変えちゃって、それでもって色々経時的に反応させて、係る活性を計ればよろしいのです。えぇ、それは分かっていますが、イントロ、マテメソ、ディスカッションが揃ってても論文的には意味がない。実験繰り返してたって意味がない。研究室に詰めようがなーんの意味もない(勉強にはなりますけども)。
(;゚д゚)データない≒Death
それが理系の辛いところですw


文系の強みは「無から有」ができるところ。すなわちデータ集めが重要なのではなく、解釈が重要なのです。データがなくても論文書こうと思えば書けるものは結構あります。政策提言論文とか、判例集めの論文とか、某K大のTとかいう院生の論文とか、その類のどうしようもないのがいい例です
これには逆説的な意味もあって、文系は「簡単にデータが作れない」といった側面もあるのです。お分かりになりますでしょうか?
例えば、あなたがA省の作ったB統計を利用して、C分析という分析法でDという新たなデータを作ったとします。その時点で、もはや使えない可能性があるのです。それは何故か。政府側の作った統計資料は統計の原本でない部分は“恣意的である”と解釈される恐れがある。つまりA省に都合の良いようにB統計は書かれている可能性がある。さらにその資料を自ら分析したとなれば、C分析を使う根拠も然ることながらDに対しても“恣意的”であると指摘される可能性がある。「結論に沿ってデータが作られたんじゃないの?」そう指摘される余地があればダメなわけです。いやはや、実に嫉妬深い難儀な世界なのですよ、文系は。
となれば、使えるデータは限られています。1次資料をそのまま使うか、有効数を確保できるアンケート調査を行うか、大家である○○大学の△△先生の解釈に乗るか。理系と違って文系の再現性は極めて弱いので、データを作ること自体、危ない橋を渡るのと同義だと思ってます。マクロ・ミクロ分析なんて場合によっては後付けだし、当たったことがありません。(以前、これを言ったらS先生の顔が歪んだので、やっぱり訂正しますorz)
それゆえ、ある事象をそのまま捉えて「○○なんじゃないか」と解釈することが懸命だと思ってます。


麻生首相の支持率は50%を割っている」→「それは口がひん曲がっているからだ」
「石破大臣は“まばたき”をしない」→「実は腹話術の人形で、裏でいっこく堂が操っている」
そんな結論でも良いのです(いえ、良くないですw)。
そこに理論性が確保されて、矛盾がなく、多くの人が納得できれば御の字なのです。斬新で独自ならば、なお良し。実現可能性があれば、もっと良し。ともかく、説得性がなければ実現可能性なんて二の次ですからね。説得力がないと意味を成しません。


とまあ、つまり「やっぱり理系さまさまやね」と言いたかったわけです。お粗末様でしたorz