とある日の走り書きより

電車の中で思索に耽るときがあります。


大体はロボットか言語学のペーパーを読んで、その先行事例を中心に考えるのですが、
「自分が小屋暮らしになったとき、何をすべきか」
「そもそも小屋暮らしをどう捉えるべきか」
「小屋暮らしと社会とはどのような関係にあるのか」
会社で不満があったときに、そんな走り書きをメモすることがあります。


以下は、4月4日に走り書きしたメモ。

私には全く理解できない人々と言うべきか、ともかくも共通項が全くない人々がいる。
人生の生き方、目標、全てにおいて理解できない。


今日において、脱社会化の動きはあるけれども、これを理解できる人は殆どいない。
社会は、あらゆる手段を使って、人間を社会の中に取り込み、その社会以外では生存不可能とせしめるのである。それゆえ、社会は貨幣制度を採用するに至ったのである。人間と人間の、社会と人間との間を介在する血液として貨幣制度は必要不可欠な手段であった。


しかし、これは社会の弱点でもあって、物々交換といった貨幣を介さずに行われる行動を制約する方法は、貨幣による課税を課すというものであった。しかれども、そもそもこの制約の非正当性は「物々交換は社会成立の前から存在しうること」であって、そこにどのような尺度で税を課すかという問題点もはらんでいる。
例えば、米と芋を交換したとして、それら農作物をどのように評価するのであろうか。
また、それらの生産にともなう所得とは一体、何を指しているのだろうか。
もっといえば、評価価値による所得は、根本をいえば「自由な食料生産を禁止する」という、本末転倒な発想なのである。
事実、貨幣制度が事実上機能しなかった戦後数年は、物々交換によって経済が成り立っており、その際は食料生産そのものが統制下におかれたのである。


(了)



この走り書きを書いた後、別の方がほぼ同じ内容のツイートをされているのを見て
自分以外にも考えている人がいるのだなぁと、ちょっと嬉しくなりました。


今日も私は走り書きメモを書き続けています。