放蕩息子の例え話より

職場での同僚や上司からの無視に耐えられるか。
そんな考察をポメラにポチポチ打っていた一日でした。


私が思うに、人間というのは
「存在する事実」は無視できても
「存在」は無視できない生物です。
このニュアンス、お分かりになりますでしょうか。
人間は、存在を否が応でも認識してしまう。
その認識は無視できない。


そう考えたとき、
ルカによる福音書』第15章に出てくる「放蕩息子の例え話」に対する、私の中の違和感は何なのか。
分かった気になりました。


「息子はもう死んでいるだろう」
「でも、目の前に現れた」
「死んでいなかった、よかったよかった」
これが普通の人間の解釈です。


ところが、放蕩息子との父親はかなり変わっています。
「死んでいる」
「しかし、生きていた」
「死から蘇った」
私は違和感を感じた点は、ここにあるのでしょう。
普通の人間の解釈でない、この点に。


人から無視されると、色々と飛躍して考え込んでしまう。
私もかなり執着の強い、奇怪な人間です。