子どもな考えかもしれないが

 最近、2つのエピソードが頭をよぎります。
 一つは岡本太郎
 もう一つは中坊公平


 岡本太郎は、二科会という芸術集団、そして世間から認められない芸術家としての自身に苦悩を感じ、最終的には二科会を脱退し、自ら個展を開くことになります。


 中坊公平は、『森永ヒ素ミルク中毒事件』の被害者を訪ね回り、ある母親から「亡くなった子どもに“あほう”と覚えさせた世間が憎い」と聞かされ、世間を全く知らなかった自分に自責の念を感じるに至ります。


 その後の二人は、周囲が驚くほど前へ前へと進んでいきます。
 岡本太郎は、自らの才能と思想を先鋭化し、「なんだこれは」と思わんばかりの芸術を世間に叩きつけます。
 中坊公平はその後、住専という国家的課題へ取り組み始めます。


 そこには“世のため人のため”という安易・安直な理由より、“自らの信念”という情緒さに従い動いているように、私は感じます。
 しかし、世間から大して認められもせず、何故そこまで出来たのか。
 単に、才能や能力の為せる技なのか。


 私の私見になりますが、おそらく“良き理解者”が傍にいたからではないでしょうか。
 世間が理解しなくとも、私はあなたを理解する。
 世間が認めなくとも、私はあなたを認める。
 岡本太郎で言えば、その存在は岡本敏子であり
 中坊公平で言えば、部下である若き弁護士たちでしょう。


 『人はパンのみで生きるに非ず』
 人間、自らを認める何者かが一人でもいれば、こんなにも強く生きていけるのかもしれません。
 例え、世間から、周囲から理解されなくとも。